2022年10月21日 日本ロシア文学会・日本スラブ研究会の合同シンポジウムを視聴しました
今日は「ロシア・東欧の抵抗精神――抑圧・弾圧の中での言葉と文化:ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、チェコ――」という日本ロシア文学会と日本スラブ研究会の合同シンポジウムのライブ配信を聴きました。
時間と自身の集中力の関係で前半の発表しか聴けなかったのですが、非常に刺激的な内容でした。
ここでは特に印象に残った2つの発表の感想を書こうと思います。
1つ目は「国歌は何を示唆するか?」というテーマの発表で、アンダーソンの『想像の共同体』の中で触れられていた国歌の機能の話を思い出す興味深い内容でした。(そういえば最近読んだ小泉悠『「帝国」ロシアの地政学』の中でもソ連とロシアの国歌についての話が出ていました。)
この発表で特に印象に残っているのは、チェコ人Kunderaによる国歌についての言及です。
Kunderaはポーランド国歌の事例を出し、「(ポーランドは)単なる国ではなく…この歌を歌う人々の見えない共同体として捉えられて」おり、ポーランドという国が消滅しても、その歌の言語(ポーランド語)を使用する共同体が存在する限りポーランドは滅びないと言える、としました。その一方で、「国を特定の言語話者の見えない共同体と同一視すると、そこに排除の原理が働いて、また別の問題を引き起こす可能性がある」とも指摘しています。
アンダーソンは、人は想像の共同体に「招き入れ」られうる、つまり国歌を歌う共同体にいつでも参入できる可能性が(実際には難しいとしても)あるとしていますが(アンダーソン 2007)、Kunderaは言語の参入可能性よりも排除の性質の方に注目しているように思います。
ロシア国歌の話も面白かったのですが、それに関しては今回の記事では省略します。
2つ目は、反体制と文学の関係をテーマとした発表でした。
実はこの発表者の先生は私の学部時代の指導教官でして、この発表が最近のモヤモヤした私の気持ちを少し救ってくれました。
先生の発表を非常に大雑把に要約すると、言論統制が厳しかったロシアでは自由に表現できる場としての文学が重要視されたため、反体制派は文学で権力に抵抗し、民衆に呼びかけている、というものでした。
その発表の中でロシア文学者が民衆について描写した内容が紹介されたのですが、それはロシア人から漂ってくる諦めの感情の理由について考えていた私に、答えを提供してくれるものでした。
ロシアの偉大な詩人プーシキンは民衆について奴隷根性が染み渡っていると激烈に批判し、ソ連期の流刑詩人の妻ナジェージダは権力に対する従順さと沈黙を指摘し、ロシアの作家ウリツカヤは「従順かつ臆病で尊厳に欠けた好奇心のない人間」が〈ソヴィエト的人民〉であると定義しました。
帝政の時代から現在まで、ロシアの普通の人々は理不尽な権力に対して諦めの感情を持って生きていたということがロシア文学者の記述を通して分かり、今回の戦争に対するロシア人たちの諦めの感情も数世紀に渡る「どうにもならない上から降ってくる理不尽への諦め」の表れなのかもしれないと納得がいきました。
また同時に、この諦めの感情はウラル山脈以東のロシア人や非ロシア系ロシア国籍者(ラシヤ―ニン)も含めて持っている感情なのかどうかも気になりました。
今回のシンポジウムは、それぞれの発表の考察対象は異なっていたものの、ロシアやスラブ世界で生きる人々の抵抗精神や現地の人々への真摯なまなざしが感じ取れました。
ここ数か月、戦争関係のニュースやSNS投稿等で見られるロシア人への差別的発言やロシア・スラブ事情に詳しくない人によるまちがった意見を日々見続けて精神的に削られていました。ですが、本日はロシア・スラブ専門家による文学的アプローチからのロシア人や東欧の人々に関する考察に触れることができ、心が救われる思いです。
ロシア文学研究者の沼野充義氏は今年6月の特別講演で自虐的に「文学研究は要らないと言われることが多いですが…」と語っていましたが(そしてご本人は要らないとは全く考えていないと思いますが)、少なくとも今の私にとって文学と文学研究は世の中を見るために必要なものでした。
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