モンゴルの「クリスマス」について
12月のウランバートルで町中を見わたすと、イルミネーションを巻き付けたモミの木、トナカイの耳を付けた若い女の子、赤いサンタクロースの服を着たデパートの店員、赤と緑を基調にした装飾がよく目に入ります。こうして表面だけ見ると、モンゴルは西欧のキリスト教の祭典であるクリスマスを日本のように冬のイベントとして受容したのかと思われます。その感想は完璧にまちがいという訳ではありません。
しかし、モンゴルの「クリスマス」は日本のような商業的性格を強く帯びたイベントではなく(今のところ)、かといって大部分は非キリスト教徒のためヨーロッパのようにキリストの生誕は祝いません。では、モンゴルの「クリスマス」は何をする行事なのでしょうか。
今日の日記では、現代モンゴルの「クリスマス」がどんな性格をもった行事として立ち現れているのか、当地のウェブニュース記事、当地キリスト教系団体のHP、そして自身の観察に基づいて考えたいと思います。
スフバータル広場にあったツリー。2022年12月。
1.源流はロシアのクリスマス
一般的に語られるモンゴルの「クリスマス」的イベント(モンゴル語ではшинэ жилシンジル、新年の意)は、ヨールク(ロシア語のヨールカのモンゴル語訛り)と呼ばれるデコレーションされたモミの木を飾り、子どもは「冬のおじいさん」と「冬のむすめ」にプレゼントと祝詞をもらい、みんなで踊りあり・出し物ありの新年を迎えるパーティー、及びそれらを行う12月~1月までの期間のことを指します。この新年を迎える祭りのことを「ヨールク」と呼びます。本記事ではモミの木のヨールクと祭りのヨールクを区別するために、後者を「ヨールク祭り」または「シンジル」と呼ぶこととします。
モンゴルのヨールク祭りの原型行事は、ロシア帝国で生まれ、ソ連で元の型ができました。1700年、近代化(=西洋化)を推進したロシア皇帝ピョートル1世の命で、元旦がユリウス暦1月1日に定められ、この新しい元日に合わせて新年が祝われるようになりました。
また、この時ピョートル1世はドイツからクリスマスツリーもロシアに持ち込みました。このツリーはクリスマスのための特別な装飾品であり、新年祝い用ではありませんでした。ちなみに、ヨーロッパとロシアのクリスマスの日付のズレは各教会が採用する暦法の違いに由来するもので、祝いの内容(イエス・キリスト降誕祭)に大きな違いはありません。
第一次世界大戦が勃発すると、敵国であるドイツ由来のものは禁止され、クリスマスやモミの木を飾ることは禁止されました。
ロシア帝政崩壊後、レーニン率いるボリシェヴィキが政権につくと一度はクリスマスやヨールカ(モミの木)は許可されるものの、レーニン死去後はクリスマスを含むブルジョア的・宗教的行事は厳しく排除されます。しかし、政府高官パーヴェル・ポスティシェフが、新聞上で「子どもたちのために新年を祝おう」と提案し、それを受けて政府は1936年から新年祝いを開くことを認めました。
このようにして、ソ連では新年を祝う行事として新たな「ヨールカ祭り」が始まりました。同時期に、ロシア民話の冬の精「ジェッド・マロース(厳寒おじいさん)」が宗教色を脱色したサンタ的存在として確立していきます。サンタと異なる点は、基本的に白か青の上着を着ていること、氷でできた魔法の杖を持っていること、孫娘のスネグーラチカ(雪娘)を連れていることです。スネグーラチカもロシア民話に登場する雪の精に由来するそうです。ジェッド・マロースとスネグーラチカはペアで新年祝いのパーティーなどに登場し、子どもたちにプレゼントを配るキャラクターとして1930年代以降に定着していきました。
2.社会主義時代における受容
1924年に社会主義国として独立したモンゴル人民共和国は、ソ連の指導で様々な行事や技術を取り入れていきます。1936年にソ連で「ヨールカ祭り」が認められると、モンゴルもそれに倣い「緑の木の祭典(Ногоон модны наадам)」という通称「ヨールク祭り」を取り入れました。「ヨールク祭り」が行われていることが確認できるのは1940年代以降で、1945年にはファシズムとの戦いの勝利を祝う性格をもったものとして開かれています。翌年1946年には国立サーカス場、国立ドラマ劇場、その他学校などで「ヨールカ祭り」が行われるようになり、これ以降公共の場を中心にどんどん広がっていったと考えられます。この時代は第1次5か年計画と重複していたこともあり、国が行う「ヨールク祭り」はその年の業績を評価する政治的行事という側面もありました。
また、ジェッド・マロースは「ウブリーン・ウブグン(冬のおじいさん)」、スネグーラチカは「ウブリーン・オヒン(冬のむすめ)」とモンゴル語訳され、姿かたちや着る服が少々モンゴルナイズされて輸入されました。また、チベット仏教徒のモンゴル人に親しみを持たせるため、十二支の動物がヨールカ祭りの舞台や装飾に取り入れられました。
ちなみに、「ヨールク祭り」ではないものの、社会主義時代に開かれたクリスマスがあります。モンゴル文学の父D.ナツァグドルジが、ドイツ留学後の1931年(1933年説もあり)に身内で開いたヨーロッパ風クリスマスパーティーです。これはソ連型新年祝いではなくあくまでもクリスマスですが、これがモンゴルで行われた最初のクリスマスまたはシンジルと言われています。ただ、社会主義体制下のモンゴルでも宗教的行事はご法度であったため、内務省に呼び出され拘束されました。
また、1月1日を新年の始まりとしそれを盛大に祝った初めての年は、モンゴルの歴史研究者バーバル氏によると1925年のようです。1924年人民共和国憲法ではグレゴリオ暦が採用され、その翌年である1925年1月1日には政府前で官僚及び党指導者らが集まり、新年のあいさつをし小宴会を行いました。
3.民主化後の西欧的クリスマスの流入とヨールク祭りとの混交
1990年代の民主化後、ソ連式の「ヨールク祭り」は廃止されることはなく、忘年会+新年会パーティー=シンジルとしてモンゴル人社会の中に残ります。それと同時に、民主化・市場化に伴い西欧式「クリスマス」がモンゴルにも少しずつ流入していきます。しかし、大多数のモンゴル人はヨールク祭り=シンジルとクリスマスの区別をつけず、ほぼ一緒のものとして扱っているようです。一部識者は「クリスマスとシンジルは別物」「クリスマスとはイエス降誕を祝うキリスト教のイベント」と啓発していますが、町にあふれるクリスマス装飾風の広告画像の中に書かれた「新年おめでとう!」の字を見る限り、一般のモンゴル人はその区別を重要視していないように思えます。
それに伴い、クリスマス≒新年祝い装飾にも変化が見られるようになりました。幼稚園や学校のシンジルではウブリーン・ウブグンとスネグーラチカが未だに見られるものの、デパートなど商業的施設ではサンタクロースとトナカイのコスプレをする店員が多数派です。装飾レベルでは十二支はもはやほぼ存在せず、町に流れるBGMは聴き馴染みのある英語のクリスマスソングです。
12月のこの赤と緑の装飾があふれるお祭り期間の呼び名は未だ「シンジル」であるものの、その見た目や内容は年々欧米型「クリスマス」に近づいているようです。
4.現代モンゴルのシンジルの祝い方
現代モンゴルではヨールク祭りという言い方はあまりせず、少なくともパーティーのことを指す場合は「シンジル」の方をよく使います。ここでは周りの話と自分が参加したことのあるシンジルを参考に紹介させていただきます。
シンジルの開催時期は12月で、職場や学校単位でやる場合はパーティー会場やレストランを貸し切り、場合によってはプロの司会者や歌手なども呼ぶほど気合が入ります。身内で小さくしっぽり…というパターンもありますが、基本的にはかなりの人数で行われます。女性は年に一番気合の入ったおめかしをしなくてはなりません。男性も顔こそ化粧をしないものの、良いスーツを着てきます。会場のテーブルにはありえない量の酒瓶(だいたいウォッカ)とコンフェッティ系のお菓子が並びます。
会の流れは、幕開けの歌か楽器演奏→その年の功労者の表彰→出し物→全員ダンス(ここで会場がディスコと化す)というものがスタンダードです。前に出ろ、踊れ、と言われたら素直に前に出て踊ったりした方が身のためです。また、モンゴルの知人曰く「シンジルでは普段見れない一面が見れたりする」とのことでした。実際、普段踊ることが想像できない人が踊ったりする(踊らざるを得ない)のでそうかもしれません。
こうしてお酒を飲み踊りあかし、夜が更けたら基本的にはシンジル終了です(強いモンゴル人は二次会へ行く)。
知人提供の写真。
2021年12月筆者撮影。
机に乗っているものがツァガーンサルっぽいと思ったけどこれもありらしい。
2021年12月筆者撮影。現地有名アーティストと踊る人たち。
今日はクリスマスということで、モンゴルの「クリスマス」について調べてみました。こうしてみると、「クリスマス」と「正月」が一体化しており日本の商業的「クリスマス」とはずれた行事となっていること、忘年会+新年会+社交パーティーの機能を持つことが改めてよく分かりました。
管見の限りでは、モンゴルの「クリスマス」の受容について大々的に取り扱った論文は見つかっていないので、もしそういったものがあれば教えていただけると幸いです。
自分については今月は体調不良が続きシンジルに参加できませんでしたが、いつかまたシンジルに実際に参加できる機会があればと思います。10年後にはどのような変化をしているのでしょうか。
参考:
小長谷有紀、ジャーダムバ・ルハグワデムチグ、ロッサビ・メアリー、ロッサビ・モリス(2013)『国立民族学博物館調査報告115 モンゴル国における20世紀(3)』
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