2023年9月29日 帰国、モンゴル生活の振り返り
9月22日、2年間のモンゴル駐在を終えて日本に帰ってきました。帰国後すぐに研究発表に参加したということもあり、今とても疲労を感じています。ただいま日本!
モンゴルでの生活は、人生で初めての連続で目まぐるしくもあり、やれることが制限されていたので歯がゆくもあり、新たな友人ができて行動範囲が広がりもした時間でした。私は自分の記憶力を信用していないので、数年後忘れてしまわないために形で軽くメモの形で残しておこうと思います。
・常勤での仕事
…この駐在の主目的であり、滞在中もっとも時間と頭のウェイトを使ったことでした。正直に言えば、2年前に戻れるならこの仕事は選びません。しかし、これのお陰で得た知識・技能・人脈があり、有意義な経験となりました。総合的に考えると、この選択をしてよかった。この2年間は、確実に人生に何らかの影響を与えてくれるだろうと信じています。
お仕事で関わった皆さまには、このポンコツがご迷惑をおかけました。任期最後までお付き合いいただきありがとうございました。
・長期の海外在住
…これまでは半年の滞在が最長でしたが、今回は2年間でした。2年となると、滞在と言うよりはそれなりに腰を落ちつけた「生活」をすることになります。しかも、留学とは異なり「仕事」です。自分の家を借り、快適に生活するために必要な物資をそろえ、決まった時間に寝て起きて、出勤して、帰ったらご飯を食べ、その他の時間はやるべきことをして、寝て…。これを2年間繰り返したら日本の院生生活を忘れかけてしまいました。2年目なんかは、この生活が一生続くのかと錯覚するくらいルーティーン化していました。
日本に本帰国した直後は、また数日後にはモンゴルの自分の家に戻らないといけないと身体が思っていそうな感覚がありました。以前、何かの書籍かウェブで読んだ文章に、アフリカの先住民が初めて自動車で移動して目的地に着いた時「魂が追い付いてくるのを待っている」といって呆然としていた、というものがあります。今の私はそんな感じです。帰国から一週間経った今、ようやく少しずつ日本に自分の頭と身体が追い付いています。
・家族以外の人間との生活
…平たく言うと、こちらで素敵な方(邦人です)と出会い、数か月お付き合いした後に同棲をはじめました。相手がいる話なので詳しく書きませんが、同棲は生まれた時からずっといる家族との生活とはまた違う経験でした。互いの「常識」の違いに戸惑い、譲歩されたりしたり、一緒にいたりいなかったり。同じ国で(だいたい)同じ言語で生きてきたはずの人でも、実はこんなに違うんだ!という発見がありました。
基本的に私が相手に対して色々迷惑をかけている側でしたが、彼は引きながらも生暖かいまなざしで見守ってくれました。ありがとうございます。
・研究対象の地域や人々の状況の変化
…私の研究対象は、基本的にロシアのブリヤート(の特に若い人たち)です。赴任当初(2021年秋)は、この駐在を利用して休暇でウラン・ウデに行こうと考えていました。
しかし、皆さんもご存じの通り2022年2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。3月からちょっとずつロシア国民が国外へ避難しているということを、ニュースやブリヤートの知人の話を通じて心配していました。それでも心のどこかで「ブリヤートはウクライナから遠いし、行き来くらいはできるだろう」と甘く見積もっていました。
そんな見積りをあざ笑うかのように、9月21日にプーチン大統領は「部分的動員令」を発表しました。発表直後から、ブリヤート共和国からモンゴル国へ、ブリヤート人を多く含む大量のロシア国民がなだれ込みました。モンゴルにおけるロシア避難民は一時期1万人に迫る勢いに増加しました(今は多少落ち着いています)。こんな状況なので、職場の人からも、大学院の先生からも、「この状況でのロシア渡航は認められない」と言われてしまいました。私自身、渡航できないことには納得しています。
でも逆に考えると、今モンゴルには多くの若いブリヤート人がいるということです。私は職場の迷惑にならず、自分の身にも危険が及ばない範囲で避難ブリヤート人や支援団体の方々に接触・交流し、現在のロシアにおけるブリヤートの様子、彼ら自身の生活、今後の展望等をシェアしてもらいました。私と交流してくれたブリヤート人は基本的に若手研究者・文化人等のいわゆるインテリ層の男性です。彼らは避難民の一部のため、私は避難している人々の生活を概観できたとは思っていません。ですが、ここで教えてもらったことは、研究か、研究にはならなくても何か別の形で彼らに還元したいと思っています。
この戦争で、私の研究予定は生活当初は全く想像していなかった方向に行ってしまった…というか考え直しになってしまいましたが、起きてしまったことには対応するしかないので、都度考えながら行動しながら進んでいこうと思います。
・自分のことについて考え直す
…外国で暮らすという経験を通して、自分は何者かを考え直す機会を与えられました。
なぜモンゴル人が私と交流してくれたのか考えてみました。
何よりも私の職務的立場。当たり前なのですが、私自身より先に私の肩書や所属を見て交流してくれました(そこから一歩進んで、話が盛り上がったり性格が合っているから友人になった人もいましたが)。「モンゴルにいる私」という人間を外から形作っていたのは、まず何より私の日本人性と肩書でした。肩書が見えない状態でたまたま話しかけてくれた人とも会話することもあったのですが、彼らも私の日本人性と性別と年齢を見ていたと思います。ちなみに、知日層の方の中には、私の苗字を見て出自に気づき、珍しいマイノリティを見る目で私に色々質問してくれた方もいました。私はこの、モンゴル人(相手)から日本人(私)へ話す時から、出身国におけるマジョリティ(相手)から出身国におけるマイノリティ(私)へと話す時の目や雰囲気の変化が面白いなと感じています。
なぜ私とブリヤートの人々が交流してくれたのかと考えてみました。
私が彼らに対して自己紹介する時決まって言うのは、①私は6年前にウラン・ウデの大学に留学した、②4年程前にはブリヤート人の男性とお付き合いしていた、③ブリヤート人の友人とはブリヤート語とロシア語を混ぜて話していた、④私の父親はマイノリティのエスニック集団出身。つまり、ブリヤートの地で暮らしたことがあり、ブリヤート人コミュニティに一回受け入れられていて、怪しくはあれど彼らの民族語を多少なりとも話しており、自身が少数民族的要素をもつ。このことがきっと彼らが私を「こちら側」として多少なりとも受け入れ、自分たちのことについて開示してくれた鍵になったのかと思います。
ちなみに、人によっては日本人としか自己開示せずに話をしたのですが、話してくれる内容が違いました。開示すると、マイノリティ対マイノリティの相互自己開示というある程度対等な会話になります。開示しない場合、より豊かな国から来たマジョリティ扱いされ、相手が私に対し一定の線を引いて話すか「日本語おしえて」「日本に行きたい」という話のウェイトが増える気がします。
あと、モンゴルに来て感じた最大の「自分」の変化は、年齢とそれに対する考え方です。
5年前にモンゴルに来た時には、人から声を掛けられるときは「Minii duu!」と年下への呼びかけを使用されていましたが、いまでは「Egch ee!」(お姉さーん!/おばさーん!)になり、敬語を使われるようになりました。タクシーに乗れば、運転手に「夫と子どもは国に残してきたのかい?」と言われるようになりました。
現在も若造扱いされることは様々な場面でありますが、それでも(肩書の助けもあり)数年前よりは自分の意見に耳を傾けてもらえることが増えました。残念なことに、日本でもモンゴルでも舐められやすいのは小さくて若い女性です。だから、egch(お姉さん/おばさん)になって、人と対等に張り合っていけるのはいいな、と思いました。いや、一番いいのは老若男女肩書問わず対等に話せる社会なんですけどね。
徒然なるままに書きましたが、この生活で得たことはまとめると下記になると思います。
・仕事の向き不向きが分かったこと
・多少の生活力
・人と生活することで気をつけるべきこと
・「自分とは何か」問題のとりあえずの落としどころ
「自分とは何か」という問題に対して無理やり一文でまとめて答えを出すならば、「場面により提示する属性を替えるが、自分にとっては何一つ嘘ではない」ということです。様々な文章で既にこれと似たことがたくさん書かれているとは思います。でも、目で読むのと、自分の人生を通じて実感するのでは天地の差がありました。
以上です。
このブログは、モンゴルとの縁が切れない限り残しておきます。
コメント
コメントを投稿